昭和42年06月02日 朝の御理解
おかげを受けるという事。様々な信心があって、おかげを受けるのですけれども、一番私は有り難いおかげの受け方と言うなら、神様に喜んで頂いて、神様の喜びがおかげに繋がって行くというおかげが、一番有り難いと思うですね。強引に「どうぞどうぞ」と、それこそ神様に一心に縋るというのが、そういう意味にだけに、なっていくといったような場合もございます。
いわゆる信心も出けませんのに、おかげだけは頂いて、というわけなんですね。なるほどそれはあの子供のおやつを貰うのにも、もうそれこそ親にねだってねだってねだりぬいてから、おやつを貰うという場合もありゃあ親の方が喜んで、「ちょっとはぁもう三時になるから三時のおやつを準備してやっとかにゃ」というふうにして、親の方がその準備してやってしかも子供の、そのおやつをもろうた喜びの顔を見て親もまた喜ぶと言う様な、おやつのやり方、受け方頂き方があるんですよね。
信心も同じ事です。私共がおかげを受けてから、本当に有り難いと思う。その真に有り難いと思うその、様子をご覧になって神様もまた喜んで下さるというような受け方。それにはやはり「どうぞおかげを下さい、どうぞこげなおかげを下さい」と言うて、その、強引に無理に願って頂くおかげよりも、やはりあの、神様に喜んで頂いてから、頂くおかげでないと、ほんとのおかげになつてこないと思うですね。
そこでその、こうして皆さんが一心にお参りをなさると。そこでその、そのお参りがです。「信心は親に孝行するも同じことぞや」といったような意味合いにおいて、一心にお参りが出来るということになったら、もうこれは神様は喜んでおかげ下さるはずですよね。「信心は親に孝行するも同じことぞや」というような、それこそ合楽を慕わしゅうて、または懐かしゅうてといったようなその、憧念心です。ね。
憧れの念を持って御広前にお引き寄せを頂くということ。こういうお参りの仕方が出来るようになると、おかげが、それこそ、こちらから頼まんでも願わんでもといったようなおかげに、なってくると思うですね。そこで、どういうようなあり方にならせてもろうたら、どういうことが分かったら、そういうふうに、心が、金光様へ金光様へと、まあ皆さんで言うならば、合楽へ合楽へとこう向かうかと。
と言う事を私はまあいうなら勉強しなければならない「懐かしきかも」「慕わしきかも」と言った様な言葉があります。その懐かしきかも慕わしきかもという、そういうその慕わしゅうしてたまらんという、ここが場にならなければならない。本当におかげを受けなければならんからしるしいけれども、きついけれども眠たいけれどもお参り続けておるというのは、神様お喜びを頂けれると言う様な信心じゃないと思うですね。
けれどもやはり、皆さん様々な難儀を持っておりますからその難儀の中から、その難儀から抜け出たいという願いが信心、と言う事も言えるんですからそれがいけないというのじゃないけれども、信心が段々分からして頂いて、神様と私共とのひとつの間柄というものがです、関係というものが段々分かってくると、願い事があるからお参りするのじゃない、頼み事があるからこげんして参りよるとというのじゃない。
それこそ慕わしきかも懐かしきかも、というのがそのお参りの元になってくるというような信心を頂きたいとこう思う。それで私はここに初めてお参りされる方、どうでもおかげを受けなければならない、と言う様な願いの元に参って来られる方達に、教えを説くと言う事も大事ですけれども、まず「願う氏子におかげをさずけ」とおっしゃるから、まずおかげの方を願うのですけれども。
まあその時に大体皆さんに申します事はですね、少しでも神様に喜んで頂けれる様な心の状態になられる事を促すわけですね、お参りしてくる人達にそれで私は神様に、是はもう絶対だと思う私が確信さして頂いておる事は、親に孝行すると言う事なんです。親に不孝をしたいと、親に不孝をせにゃと言う者はありませんけれども、親に孝行せんならん事は解っておるけれども、親孝行が出けんというのが実状じゃなかろうか。
うちの親にはもう本当によろっ、孝行もしようとも思うけれども、親のあり方が悪い、ね。いうなら、「親にお賽銭の一つもあげようと思うけれども、いっちょん喜ばんけん」とか、「なんとかかんとか不平不足ばかり言うから、もう親孝行もしようごとなか」と言った様なものもあろうと思う。ね、ですから親孝行というのは相手がどうって言う事じゃない、こうと言う事じゃない、いわゆる「親孝行のしようごてたまらん」というぐらいにならにゃいかんって。
親孝行せにゃって言う事は分かっておるけれども、なら親孝行ばもうしようごつしてたまらんという人は少ない。御先祖は大事にせんならん事は分かっておるけども、御先祖を大事にさせて貰わにやおられんという人は少ない。はあ今日は何々の霊様のお立ち日だが忘れ取るぐらいのこちゃ。ね。本当言うなら月の内一回位はですね、中心になるその人の霊様のお立ち日ならお立ち日を、自分の家の霊様への慰霊の日として、ね、
まあ家族中の者が集まってからでも良いから、そのお礼を申し上げる様なふうというものが家の中に出けて来る様になったら有り難いと思うですね。根を大事にする親を大事にする。根を大事にするから枝葉がしこらん筈はない、という一つの理なんですね。親孝行しようごとしてたまらんと言う位なね、本気で一つ親孝行さして頂こうと言う様な、気持ちになる事は、神様が喜んで下さることだからおかげになるですね。
おかげが成りよいです。様々な宗教がありましてね。もう先祖の霊がを大事にさえすりゃあ色んなおかげを頂けれると、もうそれ一点ばりで言うておる宗教なんかがありますですね。あれはもう新興宗教なんかに多いですね。あの霊友会なんかっていうのはそうですね。日蓮宗の生き方がそうですが。霊友会なんかっていうのはもう、全てがもう霊様関係ばかり。「あんた方げんはもうどういう霊様が助かっちゃなかけんで。
その霊様ば助くると病気が治る」とかと言った様にですね。もう霊様先祖を大事にさえすりゃぁおかげ頂けると言う様な一点ばりの、宗派もある位なんです。金光教の中にもやっぱありますよ。元神習会と言いよりました。これはあのここのように、先生でもないのですけれども、それがどんどん助かる。それを本部辺りから大変な圧迫を受けましてから、最近ではですねもう神習会っていうのをやめて。
天光教という別派な宗教を創りあげてしまったですね。もう教祖という人もそのなんとかと言う先生でしたがね。その人を教祖としてこの頃、秋永先生達は京都に行った時に、その隣におった信者さんがそれじゃったそうです。天光教教典なんていうのもでけてるんですね。もう教祖のみ教えをそのままです大体。み教え内容は金光教に天の字を変えたと言う様な感じですね、作り変えのような感じです。
けれどもこれはもう別派です。これなんかですね私このお話を聞いた事があるんですけれども、もう霊様関係だけしか申しませんですね。先祖を大事にする。ね、例え信心はなくても先祖祭りなんかはよぉするとこは、そのやっぱりおかげを頂くというふうに言われる、それもそのはずであります。それは霊様がですね、力があるとは思われませんもんね。私共でもどんなに力があるごとあったっちゃ、私共の力じゃないです。
神様のおかげを頂かなければ出来んのです、実を言うたら。ね、ですから霊様だって同じ事です。けれどもですね、たとえば子孫の者が先祖を大事にせずにはおられんと言う様なふうになって参りますとです。霊のお祭りでもほんとに慕わしゅうて、と言った様な気持ちでお祭りでも仕えるごとなるとですね、霊が喜ぶだけじゃなくてね、天地の親神様が喜びなさるのです、そういう心持ちになる事を。だからおかげを受けるのです。
ですから根本は天地の親神様なのですから、天地の親神様がお喜び頂けれるような一つの手段としてです。手段と言うとおかしいいですけれども、親に孝行するとか、先祖を大事にするとかというようなのはです、そういう事をいかに神様がお喜びになるかと。子供として子孫として、ね、先祖を大事にするというその心が、そこを神様は喜びなさる。いわゆる神の機感にかなうのです。
親孝行するなら、例えば人の上には幸せがもたらせるというのも、ね、それは神様の心に叶うからおかげになる。いわゆる神様のお喜びが頂けれるからおかげになる。なら神様のお喜び頂けれるということが、親孝行だけではありません。子孫(先祖)を大事にすると言う事だけではありません、ね。昨日でした。久留米の石井さんのお母さんが、月次祭、夜出来んからと言うて昼前みえました。
丁度二十九日の敬親会の時に、お届けがあっとりました「実は先生ここ四五日間、手がね、指の先だけがこうしびれてしまう」感覚がなくなってしまうのですね「唇がこう全然しびれてしまう。足が一部がしびれる。これはもう本当に、中風に中気かなんかの、前提じゃなかじゃろうかと言うて心配しよります」とこう言う「まあそんなことはないですよ神様のなんかご都合ですよ」と。
で中々非常に神経の細かい方ですから、それが心配でたまらんのですね「どうぞお願いしてくれ」というわけなんです。そして次にお話される事はですね「先生丁度私が、この手がしびれたり唇がしびれたりするようになりました、そのものもですねこう言う事からでございました。」と言うて話されるんです。あちらであの美也子さんという、ここに楽のおかげを頂いておった、娘さんがおりましたが亡くなりました。
その主人である所のしんぼと言いよりましたかね。しんぼうさん主人もその前の年に亡くなりました。だから夫婦とも亡くなった訳なんです。所がですねお夢の中にその娘婿である所のしんぼさんが、夢ん中に現れてるんですね。そして手にこういうそのお届帳なごたっとば持っておるげなこげんしてから霊様が。そしてようく見てみたならそれはその、あの人がお葬式の時にですね、お葬式のいわゆる。
香典やらが来ますとそれを控えるのがありましょうが。どこでも受付けで控えるでしょうが「どこどこさんが幾ら幾ら」というそのお葬式の時の控えの帳面を手に持っとるそうです。そして言う事がですねあの今晩あの解らんならば、あの今晩こちらへ泊めて貰おうってそう言うそうです。もう泊まるものはよくはなかばってん、そのどうせならばあのお母さんも一緒に連れて行く」っち言うちから言いなさるそうですもんね。
まあそん時夢の中ですから、まあ連れて行くなら連れてまあこう佐賀の人じゃったけん、まあ佐賀の方へでも行くごたる気持ちだったらしいんですよ。所が目が覚めてみて「あらぁほんなこて、あらぁもう亡くなっとったたい」とこう思うてですね。「はぁあれが呼びに来とるとじゃないだろうか」とこう思うたらですね、もう本当にあの寂しゅうなったとこう言う。丁度その頃から手が痺れ出したと言う。
唇が痺れだしたと。足の一部が痺れるとこうなんですね。「だからもうあれがお迎えに来るとじゃなかじゃろかと思うて、気色の悪うして」と言うてその言われるんですよね。丁度もう、一月にはなりませんでしょうけれども、高芝さんのところの御先祖の、霊様の改式祭が御座いましたです。それに石井さんの所の改式祭。そしてその新保さん所の、改式祭じゃありません。
あのお遺骨の、こへお預かりいたしましたから、まあお遺骨のまあ奉斎式とでも申しましょうかね。お遺骨を全部ここに、あの遺骨室に頂きました。そしてまあお祭りを仕えてくれと言う事で御座いましたから、言うなら三軒のお祭りをさして頂いたんです。まあその時なんかは、これはまあ別談ですけれども余談ですけれども、もうそのそれぞれが霊様のお喜びの状態がですね、様々な事にその現れてですね。
本当に霊様を大事にしなきゃ、この日を霊様待ってござったじゃろうと思う様な事が次々あったんですけれど。その中にもやはり今言う様なしんぼさんの所の夫婦の御遺骨も一緒にまいりました。ですからそのその事の時に奉仕しましたのが私と光橋先生と、久富先生でございました。ですからその、二人の先生方に翌日お礼に出てみえた時に、その偲草と、同時にそれから、先生方にお礼というて、お包みが来てましたもん。
それで私はそのお包みを、その久富先生、光橋先生に上げようと思うてこうやって上げようと思うたところがどっこいその、光橋先生の方んとにですね、中身が入ってないわけなんです。そんなことは、まあちょいちょいあります。特にお初穂なんかには、もう本当に何日おきに一遍づつぐらいあります。皆があそこでお初穂だけ書いて中身を入れるのを忘れるわけなんですね。
でそれはやっぱ皆さんお供えをしようというその気持ちだけは私はお取り次ぎさして頂いてから、申しはしません。けれどもこれは自分ここに頂くのじゃない。光三橋先生にお礼として、お初穂ではなくて御礼としてきとるのであるから、これは言うべきだろうかどうだろうかとこう迷いましたけれど、その御礼のことですからね。「光橋先生だけにはこげなんふうで来とるもんの」と。
「けれども空じゃけんで、もうあんたも頂いたとこにしといてくれんの」と言うて私は、光橋先生には申しておりました。けれどもさあこれは、石井さんがみえたら言おうかなぁと思いよったけれども、なかなか私は言いそびれておったわけなんです。そしたらその事を言われるですね。「はあ、石井さん実はですね、」と言うて私は話したことでございました。「この頃のお礼の片一方、一つのがね。
中身が入ってなかったんですよ」と。だから結局しんぼさんが、自分の事をしてもろうてお礼をしてもらいよるとに、向こうにお礼が行っとらんもんじゃから、言うなら「お葬式の時、こがしこお金集まっとるがの」とお母さんに言いよるようなもんですね。こん時のお届、その帳面ば持ってきてですね、見せるんですそこで。でそれが分かるまではここに泊めてもらおうといったような意味の事を言うんだそうです。
「だからそれは石井さんあの光橋先生の所へ早速お礼に行かにゃいかんですよ」ち。だからその袋の紙だけはまたお返ししてから。それで早速あちらへ参りましたとこう言うのです、所が先生不思議な事にその日からこの痺れが取れたとこう言うのですよ。所謂霊様が安心したと言うか霊様が喜ばれると言う事がですね。その事が行き届いて出けたという時に神様へ霊様が病気を治す力がある筈がないので御座いますから。
そのことも神様が喜んで下さって、そういうおかげになるのです。私共は行き届く不行届きの無い様にと言う事を、いつも思うんですけれどもそこが人間生身ですから、そげなこて知らん。わざとじゃない知らん知らずにも、そういう実意を欠意だ様な事があっておる。まして知ってからそういう実意を欠意だ様な事をしたんでは、おかげにならん事が分かります。行き届くということ。
そういう行き届くということも、親に対して行き届く。先祖に対して行き届く。霊様に対して行き届く所の、生き方と言う事を天地の親神様は感動まします。お喜びになるのです。ね。ですからそういう私は神様のお喜びを頂いて、それがおかげの元になると言う様な、おかげでなからなければならない。世間には霊様の事だけでおかげを受ける、霊様を大事にさえすりゃあおかげを頂くと言った様な宗教宗派すらある。
また宗教宗派の中に「先祖を大事にしちゃいけん」なんて言う宗教はありゃしません。「親に不孝をせろ」といったような宗教もある筈がありません。ね。けれどもそれはやはり神様の、先祖を大事にしたから先祖がおかげを送ってくれるのではなくてです、それがそういう心根心掛けというものを神様は喜びなさる。天地が感動ましますそれがおかげになるのでございますよね。だからおかげを頂くという意味合いにおいても、特に今日は私はですから親を中心、先祖を中心、ね。しかもそれがです。
だんだん先祖との間というものを、親というその親と子の仲がですとにかく慕わしゅうて、慕わしゅうてと言った様な心がけ。ね。なつかしきかも慕わしきかもと言う様な状態がです。先祖との仲にもがそういう働き合いが起こって来ると言うか、ね、御広前が慕わしゅうて慕わしゅうてという気持ちでお参りが出来るような、信心の工夫というものがなされる時です、そういう心掛けを神様は喜んで下さるから、神様の喜びを頂いて、おかげを頂けれるというのは、ね。
もう本当におやつとも言わんおひゅぎん(ちょっとお菓子をもらう、と言うぐらいの時に使う言葉)くれとも言わん、そして一生懸命親の言うならば手伝いやらをしてくれる。大人しゅう遊んでくれる。親の方が親が「あれを作ってやらな買うてやらにゃ」と言うて、おやつを与えるようなもの。そして子供の喜ぶ顔を見て親も喜ぶというようなもの。ね。親、神様も喜んで下さり、私共も嬉しい有り難いと言う様な、おかげを頂きたいもんだと思うですね。
どうぞ。